村井加代子氏「大伴家持の能登巡行地の一考察」
2017年 03月 25日
石川郷土史学会の第465回月例研究発表会が3月25日(土)、石川県立図書館2階の県民交流室で開かれ、村井加代子さんが「大伴家持の能登巡行地の一考察」と題して、発表しました。
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村井加代子さんは、古代の高志(こし)の国や大伴家持(おおとものやかもち)の生い立ちなどから説き起こし、家持の能登巡行地について、おおよそ次のように発表しました。
発表する村井加代子さん
◆天平18年(746年)、家持29歳、越中守に任命される。
◆天平20年(748年)、31歳、初めて越中国(能登を含む)の諸郡を巡行した。
羽咋郡・能登郡・鳳至郡・珠洲郡からなる能登で、5首の歌を詠んでいる。
★能登に入って最初の歌
之乎路から直超え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船梶もがも
★能登島について
鳥総(とぶさ)立て船木(ふなぎ)伐るといふ能登の島山 今日見れば木立(こだち)繁(しげ)しも幾代神びそ
★熊木について
香島より熊木を指して漕ぐ船の梶取る間なく都し思ほゆ
★再度、能登横断(熊木から富来へ辿った)と推定
(考察)……当時の対岸国・渤海国使者の日本への渡来で緊張していた。朝廷は、渤海使が出港する良港を探っていたか。
★𩜙石川(仁岸川)について
妹に逢わず久しくなりぬ𩜙石川(にぎしがわ)清き瀬ごとに水占延へてな
(考察)……当時、すでに仁岸周辺の山は、鉄鉱石を生産している。奈良時代、農業生産を上げるためにも、鋤、鍬などの農具に必要な鉄の発掘は、重要な産業だった。家持は、その大事な鉱山地を巡っていったのではないか。
★珠洲出港→長濱について
珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長濱の浦に 月照りにけり
(考察)……この地域には、製塩集落遺跡などがあり、塩づくりの拠点も視察したのだろうか。
村井加代子さんは、おおよそ、このように述べ、家持の能登巡行の狙いについて、独自の考察を披露しました。
発表する村井加代子さん