加納嘉津政氏「芳春夫人江戸抑留一件―重臣子女随従の事―」
2022年 05月 21日
加納嘉津政氏「芳春夫人江戸抑留一件―重臣子女随従の事―」
石川郷土史学会の第505回月例発表会が5月21日(土)、金沢市石引の県立生涯学習センター「まなびすとルーム」で開催されました。
発表会では、加納嘉津政さんが「芳春夫人江戸抑留一件―重臣子女随従の事―」と題して発表しました。
加納嘉津政さんは、はじめに、慶長3年、秀吉の死後、翌年には利家も死去し、子の利長は母の芳春院を証人(人質)として江戸に送らざるを得なくなり、その時、重臣の子女多数が芳春院に随従したとして、次のように発表しました。
♦家康の勧告により利長は国に帰った。しかるに、謀反の嫌疑をかけられ、高岡で狩猟中の利長は仰天した。
◆急きょ、帰城し、重臣会議を開いたが、太田長知(とも)、高畠定吉らは主戦派、横山長知(ちか)ら多数が非戦派となった。この結果、陳弁のため、横山長知と高山右近が大坂城の家康のもとへ派遣され、家康は諒解し、芳春院が江戸に行くことになった。
◆芳春院の江戸行きは、諸侯の妻子を証人(人質)として江戸に置く制度の最初となった。芳春院も利長も無念の思いがあり、太田長知らの主戦論に心では是認する気持ちがあったかも知れない。
◆江戸行きには、村井長頼や前田長種の息女9人のうち3人が交代で江戸に行った。
◆慶長10年、加賀藩は家康より上屋敷を和田倉門外に拝領した(辰ノ口邸)が、それ以前は、江戸城内の証人屋敷(田安門近く)に住んだと推定される。
◆芳春院は、慶長19年に金沢に帰り、元和3年に71歳にて亡くなり、野田山に眠っている。
月例発表会のあと、令和4年度総会が開催されました。(別掲)
なお、次回の月例発表会は6月18日(土)で、高井勝己さんが「金沢南部泉野丘陵周辺の城跡考」と題して発表します。
(文:亀井 敏 写真:篠井隆正)